個室にて

Ars Cruenta

目頭が熱くなるとき

 年をとると涙もろくなるとはよくいうものの、最近はちょっとしたことでも涙が出るようになった。もっとも、そんなに年は取っていないはずなのだが。

 人によっては音楽で涙が出る人もいるようだが、私の場合はもっぱら映像や文章で涙が出ることが多い。不思議なことに、白黒映像をはじめとした昔の映像を見ていると、妙に胸を打たれたような気がして涙が込み上げてくる。はじめてそういう経験をしたのは、高校生の時、授業で「映像の世紀」を見ていた時のことだった。戦争で人々がバタバタ倒れているとなると多くの人が感傷的な気分になるだろうが、私はアメリカでどんちゃん騒ぎをする人々の姿を見て涙を流していたのだった。今でも、不思議な時に涙が出てくる。先日は、バブル時代のマハラジャの映像を見ながらなぜか涙が出てきた。「この人たちはこの後、どういう時代が来るか分からずに楽しんでいるのだろう」とでも思ったのだろうか。

 文章を読んでの泣き所もいまいち自分でもよく分からない。小説を読んでいて涙が出るということはめったにない。むしろ、センター試験の国語の問題のような、評論や論説を読んでいてふと涙が出てくるのだ。小難しい文章でよく分からないところがあっても、先日は多摩ニュータウンの消費によって成り立つ街並みの議論を読んでいてふと目頭が熱くなってしまった。その文章が持つ含意がそうさせたのは言うまでもないが、それなら小説で泣いてもおかしくないはずなのだ。

 ただ、こうしたメディアをきっかけに涙が出ることが悪いことではないように思う。最近は「これを見たらお前は泣くぞ」と言わんばかりの映画の宣伝などが多い気がする。「涙活」といって、そういうものを見て涙を流すことですっきりするという活動もあるらしい。しかし、泣くためのものを用意してもらって泣くというのは、どこか順番が狂っているのではないか。こらえている涙を迎えるために何か契機があるならまだしも、泣くためのものを用意してもらって泣くなんて、まるでそれがなければ胸を打たれて泣く契機がないかのようではないか。音楽でなく人はきっと、音楽のなかに胸打たれるものを見出せるほど知覚の解像度が高い人なのだ。もちろん私のように、自分がなぜ泣いているかいまいち分からない人もいるだろうが、その涙を流せるというのはとても重要なことなのだと思う。