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L.A. ポール『今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―』

 

今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―

今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―

 

  原題はTransformative Experienceだから、邦訳にするときに相当タイトルを盛っている。帯に書かれている「人生を変える経験」をそのまま邦題にすればよかったのに、と思ってしまう。タイトルだと何の本なのか分からないくらいだが、話は簡単で、「お前自身を変えちゃうようなすっげー経験をするかどうかを、どうやって合理的に決められるんだろうか」という問いに、合理的意思決定理論の枠組みで挑むというもの。その一例としてヴィヴィッドなヴァンパイアの例が用いられているのである。筆者の言う「変容的な経験」とは、上に問いにある「すっげー経験」、認識だけでなく自己自身が、そして人生そのものが変わってしまうような私たちにとって極めて重要な経験のことを指している。こうした経験は何も空想のヴァンパイアや思考実験に限らない。第三章で筆者は聾者の人工内耳手術、子どもを持つこと、結婚、職業選択などの具体例を挙げている。

 変容的な経験において私たちは、通常用いられる類の合理的意思決定理論が役にたたないことを知る。こうした理論によると、私たちが合理的に行動するためには①その経験に伴いうる帰結の価値づけと、②その帰結がどれくらいの確率で世界から生じるのかという二つの要素が必要であり、この二つを乗算した「期待値」に従って行為することが合理的な選択だと言える。ところが変容的な経験では、まずそもそも①が不可能である。私たちはヴァンパイアになるまで、ヴァンパイアになるということがどういうことかを知らないのだし、ヴァンパイアという経験に対して想像される価値づけは何処までいっても人間である自分の思いなしに過ぎない。しかも、私の認識が変容するだけでなく私自身が変容してしまうならば、つまりヴァンパイアになってしまうならば、私はもはや人間としての選好を失いそもそも今の選好の土俵で議論することに意味がなくなるかもしれない。認識が変容するならば私たちは現時点でそうした認識にアクセスできず、自己自身が変容するならば私たちはそもそも選好が変わってしまった自分をどう扱えばいいのか分からなくなる。

 なぜこんなことが起こるのだろうか。意思決定理論そのものが、三人称的・記述的な前提を暗に含んでいるからだ、というのが筆者の答えである。意思決定理論によると、私たちはある選択をする際に帰結に対する価値の割り当てを行うが、その帰結は常に「~という性質を持つこと」などの記述的な形でしか表現され得ない。しかし実際に人が判断するときに問題になるのは、その人の一人称的な視点からまさに「~という性質を持つこと」がどのように経験されるかということなのである。私たちが熟慮し選択し行為するとき、私たちは常に一人称の視点でそれらを遂行する。筆者の議論は一貫して、この一人称的観点に基づいていると言えるだろう。このことは、「三人称視点の例えばビッグデータをもとに選ぶことが合理的なのだ」という意見を筆者が(議論によってではなく)事実として排除していることからも窺えるだろう。私たちはデータを活用するものの、自分の主観的な価値を置き去りにしてデータに頼ることのおかしさに気づいている、そう筆者は繰り返すのである。

 さて、上の問題に対する筆者の答えはある意味でとても呆気ないものである。意志決定をする際に、例えば私たちがヴァンパイアになるかどうかを選択する際に、私たちが困るのは「ヴァンパイアになることがどういうことか」を経験するまでは分からないということであった。これでは帰結に対する価値づけができない。それなら、比較する帰結のレベルを上げてしまえばいい。全く新しい経験を筆者はしばしば「啓示」(revelation) と呼ぶ。認識の変容とは、新たな啓示を受けることである。ヴァンパイアになることがどういうことかは分からないけれども、ヴァンパイアになることはただの人間にとって一つの啓示である。そして、その啓示―新しい経験を発見すること―を好むかどうかは価値づけの対象とすることができる。さらに、啓示によって私たちは変容してしまうかもしれないという問題にも、同じように解決を施せる。つまり、まさに私が変容すること、私のアイデンティティが変わること、選好が変わることを選好するかどうかという観点で意志決定理論を用いればよいのだ。人間が主観的にやりくりできる部分なんてたかが知れている。こうしたレベルでの合理性+啓示でやっていこう、それが筆者の一応の結論ということになる。

 しかしこの解決方法に依然問題があることを筆者ははっきりと認めている。つまり、私たちはある選好を現に持っている訳だが、未来について考えるときにやはりメタな啓示レベルだけでなく、こうした選好や想像力によって未来について熟慮したいと考えているからである。そうしたやり方を正当化する方法は、本論のなかでは結局分からずじまいとなっている。

 正直、この手の話題は話題そのものが苦手で、読んでいて何度も胸が詰まった。筆者が取り立てて素晴らしい例を示している訳でもないのだが、いちいち胸が疼いて苦しくなる。内容としても、そこまで理論的に凄いことが書かれている訳でもないような気がする。ただ、示唆には富んでいる。しかし、訳者は何を思って本書に「入門」という言葉をつけたのだろうか。あとがきで訳者はこれを「試み」と言っており、それも分析哲学と実存哲学の融合はこの本がはじめではないことを明言している。先に述べたように、本書のタイトルはもともと『変容的な経験』であり、どこにも「これは入門です」なんて書いているようには思えない。どういう都合でこうなったのかよく分からないし、なんでこれが「入門」なのかの説明はどこにもない。ちょっとそこは不誠実かなと思う。