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オルダス・ハクスリー『知覚の扉』

 

知覚の扉 (平凡社ライブラリー)

知覚の扉 (平凡社ライブラリー)

 

  この本は、ある意味でけしからん本である。というのも、筆者は現在日本で麻薬扱いされている「メスカリン」の服用を記録し、最後はそれを奨励さえするからである。タイトルの知覚の扉とは、まさにこの麻薬を指している――もっとも、メスカリンが私たちにとって最も適切な扉であるかどうかは2017年の日本では議論の余地があるだろうが。

 本書はメスカリンの服用実験の被験者となった筆者が、自身の体験を80頁ほど書き連ねたエッセイである。メスカリンは特に視覚において強く働く幻覚剤であり、その効果は10時間ほど持続する。ハクスリーの言葉を借りれば、通常人々が一次的だと考える距離感や物と物の位置関係よりも、二次的な色が重要となる(ここで筆者は名前だけだがロックの名前を挙げているが、一次性質と二次性質を受けてのものだろう)。そして、その物の知覚のなかに、筆者は物がそれ自体として持つリアリティを「啓示的に」受け取る、と言うのである。

 話の大半は、例えば自己を超越して椅子の足と一体になる体験、そのような宗教的体験が芸術や文学の中でどのように取り扱われてきたかについての随筆で占められている。このような体験を聞かされると、今冬とあるきっかけで読むことになった夏目漱石の『行人』を思い出す。そういえばあの作中の兄も、最後は自身が神であり、自身が鐘の音なのだと告白していたのであった。

 誰もが自己を越え出ることを望んでいる。しかしそれは、教会でのつまらないお祈りや、それに人々を耐えさせるような熱心さや美徳によって遂行されるものではない。それに対しメスカリンは、無償の恩寵として物が持つリアリティをまざまざと見せつける。そこでは生理的な要求などが意味を持たなくなり、埋没的な啓示の享受があるだけである。言語化された教育や研究の代わりに、そのような非言語的な表現があってもいいんじゃないのか、というのが筆者の最終的な意見となる。

 正直、芸術には門外漢の私としては、「いいからその世界見せてくれよ」とメスカリンの入手を真っ先に調べたくらいである。それくらい、筆者の言う「リアリティ」は話の上で魅力的なものとして感じられる。ところが、当然ながら言っていることに疑問なしとはしない。

 まず、筆者は最終盤において言語的なものと非言語的なものを羅列して語っているのだが、本当に非言語的なものはそもそもお互いにコミュニケートできるのだろうか。私の神秘的体験とあなたの神秘的体験が同じ種類のものだと言える理由は、筆者によって明示されている訳ではない。というのも、すべては筆者の体験の記述に尽きるからである。しかし筆者は一連の記述をする際に、ベルクソンの「遍在精神」という考え方を前提にしている。遍在的、それゆえ公共的。確かに、「私が鐘の音になる」という発想そのものは色々な作品や思想に見られるものなのだから・・・といえど、それはすでに言語になっている。筆者が「非言語的な無償の恩寵」ということで何を言わんとしているのかが、幻覚を見ない私にはいまいちよく分からない。言葉で伝わらないものがあるということは本当かもしれないが、言葉で伝わらないものを言葉で伝えようとしている以上、その辺はもう少しわかりやすく区別してほしい。

 それともう一つ、筆者は本書の中盤で、瞑想と行動の持つ矛盾について語っている。リアリティに向き合う時、人はもはや他人とそれを共有したり何か生活の些事をすることにまったく無関心になってしまう。しかし、人は生理的な条件の下で生きなくてはならない以上、そのような行動を実際に遂行しなくてはならない。相容れないようにみえる二つの行為をどう折り合いをつけさせるのか。筆者はこれを重大な疑問として提示しているように見えるし、その答えを「短時間だけ開く壁の中の扉」――たとえば毒性が少なくメスカリンよりも効果の持続しない化学薬品――に求めているようにも見える。しかし、そう見えるだけで、いまいち筆者がこの問題に明示的に回答を示しているようには思えない。

 ただ、読んでいて、ふと気づいてしまった。私は説明よりも、あの人に表現してもらいたかったのかもしれない。