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プラトン『テアイテトス』

 

テアイテトス (岩波文庫)

テアイテトス (岩波文庫)

 

  ものすごく久々にプラトンを読んだ。副題である「知識について」の通り、ソクラテスがテアイテトスを相手に知識が何かを探求していくという話になっている。一応認識論をやっているためなのか、ここ一年読んだ本のなかで最も引き合いに出されるプラトンの著作はこれである。

 久々に読んだからなのか、訳の調子のせいなのか、それとも『テアイテトス』のテイストなのかは正直よく分からないのだが、前半はソクラテスがかなり鬱陶しいキャラクターになっている印象。いつものああだこうだ言う感じは『ゴルギアス』や『饗宴』と同じなので(というか、それゆえにソクラテスなのだ)まあそうかと思えるのだが、自らの母親を引き合いに出しつつ智慧の産婆を自認するあたりも含め、いちいちのレトリックが妙にいやらしく感じる。時代が時代なら、グーパンされててもおかしくない。ところがああだこうだして最終節では「テアイテトス、君が生んだ子供はいずれも虚偽のものだったことが判明したけど、今度はきっとより良いものを生めるさ。これは俺の仕事、産婆術ってわけ。じゃあ俺呼び出されてるからちょっくら行ってくるわ」みたいなかっこいいセリフを残して終わる。

 この本は場合によると、有名な知識の定義である"true, justified belief"(正当化された正しい信念)のはしりであると評価されている。ただ、この評価がどこまで正しいのかはよく分からないところがあるなと。ソクラテスから知識の定義を尋ねられ、最初テアイテトスは「知識は感覚だ」と答える。ここからソクラテスプロタゴラスの説とテアイテトスの説を繋ぎ合わせ、延々議論を行っていく。この話が前半、いや、全44節ある議論のうちの第30節まで続く。その後、テアイテトスは感覚=知識説を放棄し、「正しい思いなし」を知識の定義と考える。ここから今度は「虚偽」についての検討が始まり、「正しい思いなし」はそれだけでは知識と言えなさそうだという議論になる。

 ここまでで、本書は知識を「正しい思いなし以上の何か」として考えている訳で、第38節(殆ど終盤)にきてテアイテトスは誰かから聞いた話を思い出したと言って、「正しい思いなしに言論がくっついたもの」が知識だと言う。ここまでくれば、「おお、これがかの有名な!」となりそうなものだが、この「言論」が何者かが曲者である。ソクラテスは「言論」の意味として三つの候補を挙げる。ひとつは「音声に投射された思考の陰のようなもの」(発話)であり、ひとつは車についての知識を持つ人が車の部品について列挙できる、といった「要素を通して全体に至る工程」であり、ひとつは「それによってそれが他のものから隔てられる標識」。これら三つの「言論」はいずれも知識の定義として役立たないと分かったところで議論は終わってしまう。ここで語られていることは、今私たちが普通に考える「正当化の鎖」みたいなものとはだいぶ異なった「言論」である。『テアイテトス』を以てあの有名な知識の定義のはしりとするには、ちょっと不足があるのではないだろうか。

 また、思いなしと知識の区別についても少し注意が必要かもしれない。一見してこの本では、よく言うような絶対確実な知識とそうではない思いなしの区別がなされているようにみえる。しかしその区別は、知識と思いなしの違いを強調するために持ち込まれているというよりは、(『テアイテトス』のなかだけを見るならば)もともとはもっと素朴な次元で持ち込まれている。

 テアイテトスは元々、知識とはその人が感じる感覚のことだという説を採っていたのであった。それがプロタゴラスの言葉や様々な議論を通じて反論・擁護・再反論されていくわけなのだが、ソクラテスとテアイテトスが感覚=知識説を諦めることになった契機となる議論は、有や美や差異に気づくのは肉体的な感覚器官を用いてではなく心がそれ自身によって知るのだという議論である。この議論をきっかけに、テアイテトスは感覚だけでは知識を説明できないことを認め、知識についての説明を人間の言説に水準を改めるのである。その際に彼らは「知識は絶対確実だから思いなしとは違うよね」とはいかない。テアイテトスの側が、「思いなしってあるけどあれって虚偽の場合もあるから真なる思いなしが知識なんじゃないかな」と言う訳だ。

 結局、議論は知識の確実性、真正さのようなものを前提にはしている。ましてプラトンの思想を鑑みれば(それがどこまでソクラテスの思想とかぶるのかはよく分かんないけど)、議論はそのような知識を前提にしていると考えるのは自然だろう。ただ、『テアイテトス』の議論にそのような峻別を帰してしまうのは、ちょっとやりすぎなんじゃないかなって気がしてしまう。