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イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか?』

 

言語はなぜ哲学の問題になるのか

言語はなぜ哲学の問題になるのか

 

  言語はなぜ哲学の問題になるのか。タイトル通りの本である。13章に分かれた本文は、その数からかちょうど、恐ろしく小難しい一クールのアニメを見ているような気分にさせられる。イントロダクションの第1章では言語が哲学の問題となる「マイナーな」理由が簡単に説明され、以降筆者は17世紀以来の言語と哲学の関わりを、観念の全盛期(第2~5章)・意味の全盛期(第6~10章)・文の全盛期(第11, 12章)に分けてケース・スタディ―を提供していく。これらのケース・スタディ―の分析を踏まえた最終話が第13章「言語はなぜ哲学の問題になるのか」である。こんなところまで、どことなく一クールのアニメっぽい。

 ハッキングの言う言語が哲学の問題となるマイナーな理由というのは、早い話が「私たちは自分たちの言語で何を表現しようとしているのかちゃんと分かっていなけりゃ小難しい議論もちゃんとできないよね」という理由だ。それが「ちゃんと言葉を厳密に定義してそこから議論を組み立てよう」という方向に行くと理想言語的な分析になるだろうし、「ちゃんと日常の言語を分析していこう」という方向に行くと、日常言語学派的な分析になるだろう。しかしいずれにせよ、これらはハッキングにとってマイナーな理由にすぎない。彼が第2章以降で挙げるケース・スタディはいずれも、言語と哲学の諸問題―実在物や生得説、検証の問題などがどのように関係しているかを取り扱ったものである。

 ひとつひとつのケース・スタディを纏める余裕もないので、大きな流れをまとめておくと、ハッキングの主張の一つの要は「観念の全盛期と文の全盛期は、問題の扱い方において構造を同じくしている」というものである。そしてこれが、彼の問いへの答えに繋がる。

 ホッブズやロックの観念をめぐる議論は、しばしばそれが意味の問題であると取り違えられてきた。しかしそもそも観念の全盛期には、フレーゲ的な意味(意義、Sinn) の理論などはなかったというのが筆者の主張である。デカルト的なエゴと世界を繋ぐ結節点である観念は私秘的ないわゆる「精神的言説」であり、数世代において知識が受け継がれるときに要請されるような公共的な存在者として描かれる「意味」ではない。この点で、観念と意味には私秘的―公共的という大きな断絶がある。この観念はいわば心の目で知覚されるものであり、実際に17世紀においてはそうだったのだ。(ちなみに、「日本語版への序文」では、そもそも観念の全盛期から意味の全盛期への転換が一体どこで起こったのかが簡単に探究されている。)その後2世紀の時を越えて、意味の全盛期には様々な問題が意味とのかかわり合いで探求されるということになるのだが、第9章から第11章で問題になるように、真理の基準や検証の基準を意味の基準とあたかも同一視するかのような姿勢は、いずれ比較不可能や共約不可能にまつわる問題に繋がることになる。「観察文」が存在すると考えるテーゼと、観察文と言われているものも理論を背負っているのだからそのような文は存在しないと言うアンチテーゼ。この二律背反に対してファイヤーアーベントは、「意味の理論に欠陥があるのではなく、そもそも意味の理論というアプローチがおかしいんじゃないかい?」と語りかける。文(sentences) を越えた、意味をしょいこんだ言明(statements) の拒否であり、意味の廃棄である。こうして文の全盛期としてファイヤーアーベントとディヴィドソンが扱われるのだが、この文の全盛期の構図は、ちょうど観念の全盛期の構図の各部を変えたものと対応している。つまり、観念の全盛期匂いて「実在―経験―デカルト的エゴ―観念(精神的言説)」であったものが、文の全盛期においては「実在―経験―認識主体(?)―文(公共的)」となっている。ここに、タイトルでもある問いへの筆者なりの答えが含まれている。言語はなぜ哲学の問題になるのか?―答え:17世紀に観念がそうであったように、言語がまさしく認識するものと認識される者のインターフェースだから。

 さて、上の文の全盛期における構図では、認識主体にクエスチョンマークがついている。これは私が付けたものではなく、ハッキング自身が図のなかに付したものである。このクエスチョンマークに、筆者の考える今後の知識の展開が含まれている。彼は本書の最後で、ヘーゲルの主体なき過程に立ち向かう英語で書く唯一の哲学者としてポパーの『客観的知識』をとりあげる。ポパーは、物理的な実在で作られる世界Iと私たちが認識する意識的な世界IIにくわえ、「自律的な」文のなす織物である世界IIIがあるという。筆者はポパーの進化論的な考え方には賛同せず、知識そのものが実際に変わったのだということを強調する。しかし、主体なき知識というアイディアに今後の知識の議論の焦点を合わせているようである。