個室にて

更新されてなかったら僕を叱ってください。

勿忘草の夢

 二年ほど前に作ったブログをもう一度再生させることにした。

 ただ、今度は読んだ論文や本の感想なり、ちょっと考えていることをメモ程度に書き留めておくようなブログにしようと考えている。実はGoogleの方でHPも作っていたのだが、更新するのがやたら面倒で結局荒れ地にしてしまい、ブログの方が簡単だと気付き此方を復活させることになったのだ。今度も三日坊主ほどひどくなくとも三週坊主にならないか心配だ。

 今年が始まってから前厄らしくあちこちで悪いことが起こり、ここ最近もずっとめまいと頭痛やら人間関係のあれこれ、組織のなんやらかんやらで悩まされ続けている。自分が悪いことをしたというケースも非常に多い。人がしたことは許すことができるが、自分がしたことは許されない限り勝手に終わらせることもできない。時間が経てば罪悪感も薄れるのだろうが、一度感じた罪悪感がある日突然なくなるということはこれまでのところない。未だに五年以上前のことでも、自分のしでかしたことが時折フラッシュバックして、非常に申し訳ないような気がして精神的に混乱することが多い。

 それなのに、忘れることは忘れてしまうから恐ろしい。私が元々、どうしてこんな暮らしをしているかと言えば、実は中学時代に見た夢に遡る。柳田の社の経験のようなものに近いのかもしれないが、私の場合、神秘的体験は「夢のなかでの少女との対話」という形でしばしば繰り返された。小学校時代の知り合いがどんな人だったかを忘れていくように、その少女がどんな人だったのかを少しずつ忘れていく自分がいる。夢の中の少女というものを録画したビデオはない訳で、彼女亡き今、彼女を忘れるとともに今の自分のルーツを忘れていくような気がして少し切ない。それは、町を出て新しい町でやっていこうとするような気分に似ているのかもしれない。

 ただ、最近少し引っかかることがある。彼女の考え方は確かに契約結婚のように奇抜なものもあったけれども(ちなみにこのアイディアは高校のころ、私が彼女に感心する一つの理由となった)、今にして考えるとリードやパースの動的な思考によく似ていた。彼女は「正しい一つの考え方」を自分一人で見出すべきだとは思っていなかったし、信念から次の信念へ至ることを思い描いていた(しかもその仕方は、パースの言う探究に近いものがあった)。当時私は不勉強だったから哲学史も何も知らなければ現代哲学の諸問題に聡い訳でもなかったが(や、今もか)、ひょっとすると彼女は勿忘草を持った、プラグマティズムの精霊だったのかもしれない。

 実のところ、想い出がえてしてそうであるように、具体的に何を話したのかはあまり覚えていない。印象ばかりが残っていくのだが、その印象も徐々に薄れた観念になっていく。しかしこのブログを復活させようと下書きを見て驚いた。今にして考えると、私が前にこのブログで公開しようとしていたことは、人間が具体的に抱いている悩みからどのように信念に至るかについてのものだったらしい。ちょっぴりパースっぽいじゃないか。詳細は正直、何を書いているのかよく分からなかったが。

 ただ、今でも日々抱いている悩みが重大なテーマであることには変わりはない。悩んでいるから考える。解決しようとする。その解決に人と共有できそうな合理性を持たせようとする。話し合おうとする。お互いに納得いくようにしようと思う。もしそれがうまくいかないときにどうリカバーするかを考えようとする。そのような対話が成り立つために何をしなくてはならないかを考える。破局した際に苦しむ。世界が安らぎで満たされていたならば、詰将棋と思索のどちらかを選ぶのなんて気まぐれにならないだろうかとさえ考えてしまう。無条件にこの世界の理だとか、ナマの真理を手にしようという意気込みは私にはない。