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L.A. ポール『今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―』

 

今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―

今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―

 

  原題はTransformative Experienceだから、邦訳にするときに相当タイトルを盛っている。帯に書かれている「人生を変える経験」をそのまま邦題にすればよかったのに、と思ってしまう。タイトルだと何の本なのか分からないくらいだが、話は簡単で、「お前自身を変えちゃうようなすっげー経験をするかどうかを、どうやって合理的に決められるんだろうか」という問いに、合理的意思決定理論の枠組みで挑むというもの。その一例としてヴィヴィッドなヴァンパイアの例が用いられているのである。筆者の言う「変容的な経験」とは、上に問いにある「すっげー経験」、認識だけでなく自己自身が、そして人生そのものが変わってしまうような私たちにとって極めて重要な経験のことを指している。こうした経験は何も空想のヴァンパイアや思考実験に限らない。第三章で筆者は聾者の人工内耳手術、子どもを持つこと、結婚、職業選択などの具体例を挙げている。

 変容的な経験において私たちは、通常用いられる類の合理的意思決定理論が役にたたないことを知る。こうした理論によると、私たちが合理的に行動するためには①その経験に伴いうる帰結の価値づけと、②その帰結がどれくらいの確率で世界から生じるのかという二つの要素が必要であり、この二つを乗算した「期待値」に従って行為することが合理的な選択だと言える。ところが変容的な経験では、まずそもそも①が不可能である。私たちはヴァンパイアになるまで、ヴァンパイアになるということがどういうことかを知らないのだし、ヴァンパイアという経験に対して想像される価値づけは何処までいっても人間である自分の思いなしに過ぎない。しかも、私の認識が変容するだけでなく私自身が変容してしまうならば、つまりヴァンパイアになってしまうならば、私はもはや人間としての選好を失いそもそも今の選好の土俵で議論することに意味がなくなるかもしれない。認識が変容するならば私たちは現時点でそうした認識にアクセスできず、自己自身が変容するならば私たちはそもそも選好が変わってしまった自分をどう扱えばいいのか分からなくなる。

 なぜこんなことが起こるのだろうか。意思決定理論そのものが、三人称的・記述的な前提を暗に含んでいるからだ、というのが筆者の答えである。意思決定理論によると、私たちはある選択をする際に帰結に対する価値の割り当てを行うが、その帰結は常に「~という性質を持つこと」などの記述的な形でしか表現され得ない。しかし実際に人が判断するときに問題になるのは、その人の一人称的な視点からまさに「~という性質を持つこと」がどのように経験されるかということなのである。私たちが熟慮し選択し行為するとき、私たちは常に一人称の視点でそれらを遂行する。筆者の議論は一貫して、この一人称的観点に基づいていると言えるだろう。このことは、「三人称視点の例えばビッグデータをもとに選ぶことが合理的なのだ」という意見を筆者が(議論によってではなく)事実として排除していることからも窺えるだろう。私たちはデータを活用するものの、自分の主観的な価値を置き去りにしてデータに頼ることのおかしさに気づいている、そう筆者は繰り返すのである。

 さて、上の問題に対する筆者の答えはある意味でとても呆気ないものである。意志決定をする際に、例えば私たちがヴァンパイアになるかどうかを選択する際に、私たちが困るのは「ヴァンパイアになることがどういうことか」を経験するまでは分からないということであった。これでは帰結に対する価値づけができない。それなら、比較する帰結のレベルを上げてしまえばいい。全く新しい経験を筆者はしばしば「啓示」(revelation) と呼ぶ。認識の変容とは、新たな啓示を受けることである。ヴァンパイアになることがどういうことかは分からないけれども、ヴァンパイアになることはただの人間にとって一つの啓示である。そして、その啓示―新しい経験を発見すること―を好むかどうかは価値づけの対象とすることができる。さらに、啓示によって私たちは変容してしまうかもしれないという問題にも、同じように解決を施せる。つまり、まさに私が変容すること、私のアイデンティティが変わること、選好が変わることを選好するかどうかという観点で意志決定理論を用いればよいのだ。人間が主観的にやりくりできる部分なんてたかが知れている。こうしたレベルでの合理性+啓示でやっていこう、それが筆者の一応の結論ということになる。

 しかしこの解決方法に依然問題があることを筆者ははっきりと認めている。つまり、私たちはある選好を現に持っている訳だが、未来について考えるときにやはりメタな啓示レベルだけでなく、こうした選好や想像力によって未来について熟慮したいと考えているからである。そうしたやり方を正当化する方法は、本論のなかでは結局分からずじまいとなっている。

 正直、この手の話題は話題そのものが苦手で、読んでいて何度も胸が詰まった。筆者が取り立てて素晴らしい例を示している訳でもないのだが、いちいち胸が疼いて苦しくなる。内容としても、そこまで理論的に凄いことが書かれている訳でもないような気がする。ただ、示唆には富んでいる。しかし、訳者は何を思って本書に「入門」という言葉をつけたのだろうか。あとがきで訳者はこれを「試み」と言っており、それも分析哲学と実存哲学の融合はこの本がはじめではないことを明言している。先に述べたように、本書のタイトルはもともと『変容的な経験』であり、どこにも「これは入門です」なんて書いているようには思えない。どういう都合でこうなったのかよく分からないし、なんでこれが「入門」なのかの説明はどこにもない。ちょっとそこは不誠実かなと思う。

オルダス・ハクスリー『知覚の扉』

 

知覚の扉 (平凡社ライブラリー)

知覚の扉 (平凡社ライブラリー)

 

  この本は、ある意味でけしからん本である。というのも、筆者は現在日本で麻薬扱いされている「メスカリン」の服用を記録し、最後はそれを奨励さえするからである。タイトルの知覚の扉とは、まさにこの麻薬を指している――もっとも、メスカリンが私たちにとって最も適切な扉であるかどうかは2017年の日本では議論の余地があるだろうが。

 本書はメスカリンの服用実験の被験者となった筆者が、自身の体験を80頁ほど書き連ねたエッセイである。メスカリンは特に視覚において強く働く幻覚剤であり、その効果は10時間ほど持続する。ハクスリーの言葉を借りれば、通常人々が一次的だと考える距離感や物と物の位置関係よりも、二次的な色が重要となる(ここで筆者は名前だけだがロックの名前を挙げているが、一次性質と二次性質を受けてのものだろう)。そして、その物の知覚のなかに、筆者は物がそれ自体として持つリアリティを「啓示的に」受け取る、と言うのである。

 話の大半は、例えば自己を超越して椅子の足と一体になる体験、そのような宗教的体験が芸術や文学の中でどのように取り扱われてきたかについての随筆で占められている。このような体験を聞かされると、今冬とあるきっかけで読むことになった夏目漱石の『行人』を思い出す。そういえばあの作中の兄も、最後は自身が神であり、自身が鐘の音なのだと告白していたのであった。

 誰もが自己を越え出ることを望んでいる。しかしそれは、教会でのつまらないお祈りや、それに人々を耐えさせるような熱心さや美徳によって遂行されるものではない。それに対しメスカリンは、無償の恩寵として物が持つリアリティをまざまざと見せつける。そこでは生理的な要求などが意味を持たなくなり、埋没的な啓示の享受があるだけである。言語化された教育や研究の代わりに、そのような非言語的な表現があってもいいんじゃないのか、というのが筆者の最終的な意見となる。

 正直、芸術には門外漢の私としては、「いいからその世界見せてくれよ」とメスカリンの入手を真っ先に調べたくらいである。それくらい、筆者の言う「リアリティ」は話の上で魅力的なものとして感じられる。ところが、当然ながら言っていることに疑問なしとはしない。

 まず、筆者は最終盤において言語的なものと非言語的なものを羅列して語っているのだが、本当に非言語的なものはそもそもお互いにコミュニケートできるのだろうか。私の神秘的体験とあなたの神秘的体験が同じ種類のものだと言える理由は、筆者によって明示されている訳ではない。というのも、すべては筆者の体験の記述に尽きるからである。しかし筆者は一連の記述をする際に、ベルクソンの「遍在精神」という考え方を前提にしている。遍在的、それゆえ公共的。確かに、「私が鐘の音になる」という発想そのものは色々な作品や思想に見られるものなのだから・・・といえど、それはすでに言語になっている。筆者が「非言語的な無償の恩寵」ということで何を言わんとしているのかが、幻覚を見ない私にはいまいちよく分からない。言葉で伝わらないものがあるということは本当かもしれないが、言葉で伝わらないものを言葉で伝えようとしている以上、その辺はもう少しわかりやすく区別してほしい。

 それともう一つ、筆者は本書の中盤で、瞑想と行動の持つ矛盾について語っている。リアリティに向き合う時、人はもはや他人とそれを共有したり何か生活の些事をすることにまったく無関心になってしまう。しかし、人は生理的な条件の下で生きなくてはならない以上、そのような行動を実際に遂行しなくてはならない。相容れないようにみえる二つの行為をどう折り合いをつけさせるのか。筆者はこれを重大な疑問として提示しているように見えるし、その答えを「短時間だけ開く壁の中の扉」――たとえば毒性が少なくメスカリンよりも効果の持続しない化学薬品――に求めているようにも見える。しかし、そう見えるだけで、いまいち筆者がこの問題に明示的に回答を示しているようには思えない。

 ただ、読んでいて、ふと気づいてしまった。私は説明よりも、あの人に表現してもらいたかったのかもしれない。

プラトン『テアイテトス』

 

テアイテトス (岩波文庫)

テアイテトス (岩波文庫)

 

  ものすごく久々にプラトンを読んだ。副題である「知識について」の通り、ソクラテスがテアイテトスを相手に知識が何かを探求していくという話になっている。一応認識論をやっているためなのか、ここ一年読んだ本のなかで最も引き合いに出されるプラトンの著作はこれである。

 久々に読んだからなのか、訳の調子のせいなのか、それとも『テアイテトス』のテイストなのかは正直よく分からないのだが、前半はソクラテスがかなり鬱陶しいキャラクターになっている印象。いつものああだこうだ言う感じは『ゴルギアス』や『饗宴』と同じなので(というか、それゆえにソクラテスなのだ)まあそうかと思えるのだが、自らの母親を引き合いに出しつつ智慧の産婆を自認するあたりも含め、いちいちのレトリックが妙にいやらしく感じる。時代が時代なら、グーパンされててもおかしくない。ところがああだこうだして最終節では「テアイテトス、君が生んだ子供はいずれも虚偽のものだったことが判明したけど、今度はきっとより良いものを生めるさ。これは俺の仕事、産婆術ってわけ。じゃあ俺呼び出されてるからちょっくら行ってくるわ」みたいなかっこいいセリフを残して終わる。

 この本は場合によると、有名な知識の定義である"true, justified belief"(正当化された正しい信念)のはしりであると評価されている。ただ、この評価がどこまで正しいのかはよく分からないところがあるなと。ソクラテスから知識の定義を尋ねられ、最初テアイテトスは「知識は感覚だ」と答える。ここからソクラテスプロタゴラスの説とテアイテトスの説を繋ぎ合わせ、延々議論を行っていく。この話が前半、いや、全44節ある議論のうちの第30節まで続く。その後、テアイテトスは感覚=知識説を放棄し、「正しい思いなし」を知識の定義と考える。ここから今度は「虚偽」についての検討が始まり、「正しい思いなし」はそれだけでは知識と言えなさそうだという議論になる。

 ここまでで、本書は知識を「正しい思いなし以上の何か」として考えている訳で、第38節(殆ど終盤)にきてテアイテトスは誰かから聞いた話を思い出したと言って、「正しい思いなしに言論がくっついたもの」が知識だと言う。ここまでくれば、「おお、これがかの有名な!」となりそうなものだが、この「言論」が何者かが曲者である。ソクラテスは「言論」の意味として三つの候補を挙げる。ひとつは「音声に投射された思考の陰のようなもの」(発話)であり、ひとつは車についての知識を持つ人が車の部品について列挙できる、といった「要素を通して全体に至る工程」であり、ひとつは「それによってそれが他のものから隔てられる標識」。これら三つの「言論」はいずれも知識の定義として役立たないと分かったところで議論は終わってしまう。ここで語られていることは、今私たちが普通に考える「正当化の鎖」みたいなものとはだいぶ異なった「言論」である。『テアイテトス』を以てあの有名な知識の定義のはしりとするには、ちょっと不足があるのではないだろうか。

 また、思いなしと知識の区別についても少し注意が必要かもしれない。一見してこの本では、よく言うような絶対確実な知識とそうではない思いなしの区別がなされているようにみえる。しかしその区別は、知識と思いなしの違いを強調するために持ち込まれているというよりは、(『テアイテトス』のなかだけを見るならば)もともとはもっと素朴な次元で持ち込まれている。

 テアイテトスは元々、知識とはその人が感じる感覚のことだという説を採っていたのであった。それがプロタゴラスの言葉や様々な議論を通じて反論・擁護・再反論されていくわけなのだが、ソクラテスとテアイテトスが感覚=知識説を諦めることになった契機となる議論は、有や美や差異に気づくのは肉体的な感覚器官を用いてではなく心がそれ自身によって知るのだという議論である。この議論をきっかけに、テアイテトスは感覚だけでは知識を説明できないことを認め、知識についての説明を人間の言説に水準を改めるのである。その際に彼らは「知識は絶対確実だから思いなしとは違うよね」とはいかない。テアイテトスの側が、「思いなしってあるけどあれって虚偽の場合もあるから真なる思いなしが知識なんじゃないかな」と言う訳だ。

 結局、議論は知識の確実性、真正さのようなものを前提にはしている。ましてプラトンの思想を鑑みれば(それがどこまでソクラテスの思想とかぶるのかはよく分かんないけど)、議論はそのような知識を前提にしていると考えるのは自然だろう。ただ、『テアイテトス』の議論にそのような峻別を帰してしまうのは、ちょっとやりすぎなんじゃないかなって気がしてしまう。

Alexander Broadie(ed.), The Cambridge Companion to the Scottish Enlightenment(1)

 

The Cambridge Companion to the Scottish Enlightenment (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to the Scottish Enlightenment (Cambridge Companions to Philosophy)

 

  スコットランド啓蒙について知ろう! という論文集。スコットランド啓蒙の背景に始まり、宗教、科学、道徳哲学、政治・経済、法、修史、芸術について論文が載り、最後はヨーロッパ・アメリカへの影響と19世紀におけるスコットランドで締められる。

 イントロでは、ブローディーがスコットランド啓蒙の存在についての懐疑に対し答え、啓蒙の特徴を社会科学・自然科学・包括性に求める三つの立場を紹介したうえで、本書の論文とこれらの立場の対応を述べている。まあ、良くも悪くもイントロである。

 第1章では(1)スコットランドの地理、(2)政治経済・イングランドとの関係、(3)パトロン、特に第三代アーギル公爵の影響、(4)スコットランド人のコスモポリタン的色彩、(5)大学改革と団体・エディンバラにおける啓蒙(6)アバディーングラスゴーにおける啓蒙が解説される。簡単ではあるが、エディンバラアバディーングラスゴーでも啓蒙の毛色が少しずつ異なることなども紹介されている。

 第2章はヒュームを軸に啓示宗教と自然宗教を考えるお話。この論文集の中では、かなり重要な論文なんじゃないだろうかという気がするが、勉強不足でよく分からないことも多かった。トマス・ハリーバートンの「聖書に理性による評価なんていらないぜ」という立場から、17世紀における科学の成功をきっかけに、宇宙論的証明と同じくお馴染みのデザインによる議論が受け入れられていく様子が前半の主な論点となる。筆者は特に、神についての議論が神の存在のみならず神の属性をめぐる問題であることを強調し、サミュエル・クラークの議論を特に評価している。後半ではヒューム以後の「懐疑論」の受け入れられ方の変化(単にヒュームは宗教を否定しているのではなく様々な信念を懐疑しているのだから、そのもととなる考え方を攻撃すれば宗教的な信念も擁護できるんじゃないか、という考え方)から出発して、ケイムズやリードの反応などについて議論されている。例えばリードもまた、宇宙論的証明とデザイン・アーギュメントを並列して用いる点で、スコットランドの伝統に従っているとか。

 第3章は精神を解明する精神の学(pneumatology) が自然科学の一部として捉えられていたということが主な問題になる。それ以前は天使についても語っていた精神の学は、18世紀に入って私たちが充分に観察できる人間の心をニュートニズムのなかで解明していこうという考え方が中心となって広まり、このパラダイムの下でヒュームもリードも探究を進めている。まあでも、個人的には最終盤に出てくるデュガルド・ステュワートの「意識されていない記憶」に対するリードの反応のくだりが面白かった。リードにも意識されていない感覚なり何なりは、私たちが注意を向けることで意識することができる。それに対して、ステュワートの記憶は原理的に私たちが意識を向けることができない。そこにリードがステュワートの説を「仮説的だ!」と攻撃する理由があるのだという。

 第4章は、スコットランドにおける人類学めいたもののお話。ざっと読み飛ばしてしまったのだが、「人間の野生の状態を調べてやることによって人間について何か分かるに違いない」という考え方に基づき、野生児(wild children)や人類学的な報告に関心が持たれ、さらに男性と女性・人間と動物の異同からも人間本性についてのアプローチが行われていたんだよ、という話だったのだろう。議論の流れというよりも、ハチスンの動物についての考え方には興味を持てた。

イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか?』

 

言語はなぜ哲学の問題になるのか

言語はなぜ哲学の問題になるのか

 

  言語はなぜ哲学の問題になるのか。タイトル通りの本である。13章に分かれた本文は、その数からかちょうど、恐ろしく小難しい一クールのアニメを見ているような気分にさせられる。イントロダクションの第1章では言語が哲学の問題となる「マイナーな」理由が簡単に説明され、以降筆者は17世紀以来の言語と哲学の関わりを、観念の全盛期(第2~5章)・意味の全盛期(第6~10章)・文の全盛期(第11, 12章)に分けてケース・スタディ―を提供していく。これらのケース・スタディ―の分析を踏まえた最終話が第13章「言語はなぜ哲学の問題になるのか」である。こんなところまで、どことなく一クールのアニメっぽい。

 ハッキングの言う言語が哲学の問題となるマイナーな理由というのは、早い話が「私たちは自分たちの言語で何を表現しようとしているのかちゃんと分かっていなけりゃ小難しい議論もちゃんとできないよね」という理由だ。それが「ちゃんと言葉を厳密に定義してそこから議論を組み立てよう」という方向に行くと理想言語的な分析になるだろうし、「ちゃんと日常の言語を分析していこう」という方向に行くと、日常言語学派的な分析になるだろう。しかしいずれにせよ、これらはハッキングにとってマイナーな理由にすぎない。彼が第2章以降で挙げるケース・スタディはいずれも、言語と哲学の諸問題―実在物や生得説、検証の問題などがどのように関係しているかを取り扱ったものである。

 ひとつひとつのケース・スタディを纏める余裕もないので、大きな流れをまとめておくと、ハッキングの主張の一つの要は「観念の全盛期と文の全盛期は、問題の扱い方において構造を同じくしている」というものである。そしてこれが、彼の問いへの答えに繋がる。

 ホッブズやロックの観念をめぐる議論は、しばしばそれが意味の問題であると取り違えられてきた。しかしそもそも観念の全盛期には、フレーゲ的な意味(意義、Sinn) の理論などはなかったというのが筆者の主張である。デカルト的なエゴと世界を繋ぐ結節点である観念は私秘的ないわゆる「精神的言説」であり、数世代において知識が受け継がれるときに要請されるような公共的な存在者として描かれる「意味」ではない。この点で、観念と意味には私秘的―公共的という大きな断絶がある。この観念はいわば心の目で知覚されるものであり、実際に17世紀においてはそうだったのだ。(ちなみに、「日本語版への序文」では、そもそも観念の全盛期から意味の全盛期への転換が一体どこで起こったのかが簡単に探究されている。)その後2世紀の時を越えて、意味の全盛期には様々な問題が意味とのかかわり合いで探求されるということになるのだが、第9章から第11章で問題になるように、真理の基準や検証の基準を意味の基準とあたかも同一視するかのような姿勢は、いずれ比較不可能や共約不可能にまつわる問題に繋がることになる。「観察文」が存在すると考えるテーゼと、観察文と言われているものも理論を背負っているのだからそのような文は存在しないと言うアンチテーゼ。この二律背反に対してファイヤーアーベントは、「意味の理論に欠陥があるのではなく、そもそも意味の理論というアプローチがおかしいんじゃないかい?」と語りかける。文(sentences) を越えた、意味をしょいこんだ言明(statements) の拒否であり、意味の廃棄である。こうして文の全盛期としてファイヤーアーベントとディヴィドソンが扱われるのだが、この文の全盛期の構図は、ちょうど観念の全盛期の構図の各部を変えたものと対応している。つまり、観念の全盛期匂いて「実在―経験―デカルト的エゴ―観念(精神的言説)」であったものが、文の全盛期においては「実在―経験―認識主体(?)―文(公共的)」となっている。ここに、タイトルでもある問いへの筆者なりの答えが含まれている。言語はなぜ哲学の問題になるのか?―答え:17世紀に観念がそうであったように、言語がまさしく認識するものと認識される者のインターフェースだから。

 さて、上の文の全盛期における構図では、認識主体にクエスチョンマークがついている。これは私が付けたものではなく、ハッキング自身が図のなかに付したものである。このクエスチョンマークに、筆者の考える今後の知識の展開が含まれている。彼は本書の最後で、ヘーゲルの主体なき過程に立ち向かう英語で書く唯一の哲学者としてポパーの『客観的知識』をとりあげる。ポパーは、物理的な実在で作られる世界Iと私たちが認識する意識的な世界IIにくわえ、「自律的な」文のなす織物である世界IIIがあるという。筆者はポパーの進化論的な考え方には賛同せず、知識そのものが実際に変わったのだということを強調する。しかし、主体なき知識というアイディアに今後の知識の議論の焦点を合わせているようである。

架神恭介『仁義なきキリスト教史』

 

仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)
 

  冬に文庫版が出たと聞いてネタとして面白いと思い購入したものの、部屋の床に転がったまま四月まで発掘されなかった一冊。コンセプトは、キリスト教の歴史を極道モノとして面白おかしく紹介しようというものである。

 キリスト教という聖的なイメージを持つとされる宗教を闘争という観点で捉えるならば、ぶっちゃけ極道組織を引き合いに出す必要はまるでない。キリスト教の闘争を政治的闘争であれ殺し合いであれそのまま語ってくれても、その多くは私たちが理解できるものだろう。少なくとも、教義は分からずとも何でどんなふうにことが展開しているかはおおよそ分かるのだし、世界史の授業は恐らくそうやって成り立っている。それでも作者が極道を引き合いに出してきたのには、恐らく「仁義」という考え方がそれ自体宗教的でありつつ政治的なものであるということと関わりがあるだろうし、極道から連想される血腥いイメージが作者のキリスト教観に見合っていたからなのだろう。作者本人は、キリスト教の俗的部分を強調するためのヤクザなのだと述べている。

 最初はそれなりに面白く読めたのだが、第三章あたりから徐々にだれはじめる。誰もが極道のよく分からない広島弁で話すし、重要なシーンを飛ばし飛ばし流すものだから、ヤクザ同士の怒鳴りあいと解説が大半を占め、話にハリがない。極道との類比がもたらす一つの難点は、国全体がヤクザになってしまったのであれば誰もがけったいな言葉で話さざるを得なくなることである。それどころか、平民やキリスト教国家になって以降の国王のみならず、ピラトゥスやコンスタンティヌス帝のような宗教ヤクザ外の人でさえみんなヤクザ言葉で話す(作者の心持としては、帝国はヤクザなのかもしれないしそのように述べているように取れる箇所があるのだが、それだとヤクザ外という概念がそもそもないことになってしまう。)。唯一の例外はヤコブだが、こちらはこちらで、あまりに典型的な「いやらしい中年のおじさん」みたいな感じの描き方になっていて、なんというかクサい。

 それと、極道モノにすることでイエス死後直後あたりまではそれなりに極道モノっぽく読めるのだが、やはり11世紀あたりに入っていくと極道モノとして読むにはかなり無理が入ってくる。キリスト教の語彙が「極道用語」として紹介され発言が極道の言葉に翻訳されているだけで、任侠ドラマとして見るにはかなり無理が出てくる。任侠映画なんてテレビでちょっとくらいしか見たことがないのだが、そんな僕でも「これじゃない感」がある。

 最後の解説で、キリスト教世界をヤクザ物語にする効用として解説者は、「〔キリスト教を〕多くの宗教の一つとして相対化するのみならず、「人間ならではの営み」というさらに根本的なレベルでも相対化してみせた」と述べている。え? ほんとに?

冨田恭彦『カント入門講義』

 

  入門したかったので読んだ。相変わらず丁寧な解説で、同じことを色々な仕方で説明し直してくれるので話が分かりやすい。最終章の「歪んだ論理」についてはもう一冊書かれたあっちを読まなきゃならないなあ、などと。

 あとがきによると、これまで科学史の流れを顧慮した純粋理性批判についての「わかる」本が無かったから自分で書いたとのことで、前書きを見ると「ですます調だけどレベルは落とさないし、いわゆる「専門書」よりレベルは高いかもしれない」というようなことが書かれている。具体的には出てこないが、どこか棘がある。

 ちょっとわかりにくかったというか引っかかったのは、「図式」(Schema)という言葉。「概念図式」という言葉が現代の哲学で使われるからそんなに疑問にも思っていなかったんだけど、「像と図式は別物でしてね」みたいな話をされると、Schemaってなんで「図式」と訳されるんだろうって改めて疑問に思った。伝統的にそうなっているだけなのかもしれないけど、図式って日常使うときってどっちかというと「像」に近い印象がある。ドイツ語大辞典とかだと、1aに「図式」ほにゃほにゃという説明があって1bがカントの超越論的図式のこと、となっているのだが、2に「ひな形」「パターン」みたいな意味も出ている。「型」とかじゃだめなんだろうか。よくわかんない。