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個室にて

更新されてなかったら僕を叱ってください。

架神恭介『仁義なきキリスト教史』

 

仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)
 

  冬に文庫版が出たと聞いてネタとして面白いと思い購入したものの、部屋の床に転がったまま四月まで発掘されなかった一冊。コンセプトは、キリスト教の歴史を極道モノとして面白おかしく紹介しようというものである。

 キリスト教という聖的なイメージを持つとされる宗教を闘争という観点で捉えるならば、ぶっちゃけ極道組織を引き合いに出す必要はまるでない。キリスト教の闘争を政治的闘争であれ殺し合いであれそのまま語ってくれても、その多くは私たちが理解できるものだろう。少なくとも、教義は分からずとも何でどんなふうにことが展開しているかはおおよそ分かるのだし、世界史の授業は恐らくそうやって成り立っている。それでも作者が極道を引き合いに出してきたのには、恐らく「仁義」という考え方がそれ自体宗教的でありつつ政治的なものであるということと関わりがあるだろうし、極道から連想される血腥いイメージが作者のキリスト教観に見合っていたからなのだろう。作者本人は、キリスト教の俗的部分を強調するためのヤクザなのだと述べている。

 最初はそれなりに面白く読めたのだが、第三章あたりから徐々にだれはじめる。誰もが極道のよく分からない広島弁で話すし、重要なシーンを飛ばし飛ばし流すものだから、ヤクザ同士の怒鳴りあいと解説が大半を占め、話にハリがない。極道との類比がもたらす一つの難点は、国全体がヤクザになってしまったのであれば誰もがけったいな言葉で話さざるを得なくなることである。それどころか、平民やキリスト教国家になって以降の国王のみならず、ピラトゥスやコンスタンティヌス帝のような宗教ヤクザ外の人でさえみんなヤクザ言葉で話す(作者の心持としては、帝国はヤクザなのかもしれないしそのように述べているように取れる箇所があるのだが、それだとヤクザ外という概念がそもそもないことになってしまう。)。唯一の例外はヤコブだが、こちらはこちらで、あまりに典型的な「いやらしい中年のおじさん」みたいな感じの描き方になっていて、なんというかクサい。

 それと、極道モノにすることでイエス死後直後あたりまではそれなりに極道モノっぽく読めるのだが、やはり11世紀あたりに入っていくと極道モノとして読むにはかなり無理が入ってくる。キリスト教の語彙が「極道用語」として紹介され発言が極道の言葉に翻訳されているだけで、任侠ドラマとして見るにはかなり無理が出てくる。任侠映画なんてテレビでちょっとくらいしか見たことがないのだが、そんな僕でも「これじゃない感」がある。

 最後の解説で、キリスト教世界をヤクザ物語にする効用として解説者は、「〔キリスト教を〕多くの宗教の一つとして相対化するのみならず、「人間ならではの営み」というさらに根本的なレベルでも相対化してみせた」と述べている。え? ほんとに?

冨田恭彦『カント入門講義』

 

  入門したかったので読んだ。相変わらず丁寧な解説で、同じことを色々な仕方で説明し直してくれるので話が分かりやすい。最終章の「歪んだ論理」についてはもう一冊書かれたあっちを読まなきゃならないなあ、などと。

 あとがきによると、これまで科学史の流れを顧慮した純粋理性批判についての「わかる」本が無かったから自分で書いたとのことで、前書きを見ると「ですます調だけどレベルは落とさないし、いわゆる「専門書」よりレベルは高いかもしれない」というようなことが書かれている。具体的には出てこないが、どこか棘がある。

 ちょっとわかりにくかったというか引っかかったのは、「図式」(Schema)という言葉。「概念図式」という言葉が現代の哲学で使われるからそんなに疑問にも思っていなかったんだけど、「像と図式は別物でしてね」みたいな話をされると、Schemaってなんで「図式」と訳されるんだろうって改めて疑問に思った。伝統的にそうなっているだけなのかもしれないけど、図式って日常使うときってどっちかというと「像」に近い印象がある。ドイツ語大辞典とかだと、1aに「図式」ほにゃほにゃという説明があって1bがカントの超越論的図式のこと、となっているのだが、2に「ひな形」「パターン」みたいな意味も出ている。「型」とかじゃだめなんだろうか。よくわかんない。

ハリー・コリンズ『我々みんなが科学の専門家なのか?』

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

 

 科学論の分野で有名なハリー・コリンズの著書が翻訳で出ていると気づき、読んだのは二週間ほど前か。コリンズはこの本のなかで、「デフォルト専門知」(私たちみんなが科学の専門家たりうるという”感覚”)がどれくらいまともなものであるかを、私たちの持つ様々な専門知を幾つかのレベルに区分することで検討しようとしている。

 コリンズの議論のひとつの利点は、私たちが通常かなり狭く取りがちな「専門知」(スペシャリスト専門知とでもいうべきもの)を、「ユビキタス専門知」(文化生活のなかで私たちが暗に学習していく文化的知識)というかなり広範な専門知まで含む概念にしていることだろう。本人が書いている訳ではないけれど、例えばマルセル・モースの身体技法なんかも、一部はユビキタス専門知のなかに含まれることになるだろう。このように捉えることで、例えばユビキタス専門知のレベルでも異なる様々な文化的知識を想定することができるし、私たちが普段抱いている信念と科学者の信念を突合せしやすくなる。この二つのほかにも「どうやって適切な専門家を選ぶか」というメタ専門知というのもあるのだが、こちらは正直よく分からなかった。

 個人的には常識と科学(や宗教)の関わりが面白いと感じるので、ユビキタス専門知やそこから一次資料を読み込むことで得られる一次資料知と科学的な専門知(スペシャリスト専門知)がどう関わるのかが特に興味をそそられた。コリンズの議論が示唆していることは、「私たちは科学者共同体に入りその中で息を吸うことで科学者的なスペシャリスト専門知を得る。そうでない一次資料知の集積は、どこまでいってもスペシャリスト専門知には辿りつかない」というものである。

 なぜか。コリンズによれば、科学者共同体の中の知識はその全てが言わば「開示」されているわけではない。論文における動詞の使い方ひとつをとっても、その分野の科学者たちが暗に共有している暗黙知に近いものがある。それを理解することなく科学者を批判しても、それは例えばクライメイト事件の場合のように、的外れなものになってしまいかねない。じゃあその暗黙知を得るにはどうするべきか。あなたは科学者共同体に入るべきなのだ、というわけである。

 さらにコリンズは、例えば経済学のような研究者が見通しを立てても一般の人以上に精度の高い予測ができないような分野が存在することを認める。そのような分野では言わば、専門家と私たちを隔てる柵は倒されている。あれ? じゃあ経済学ではデフォルト専門知は通用する考えじゃないの? いえ、そうじゃないんだよ、とコリンズは言う。彼は、銀行家には銀行家のエートスがあり、聖職者には聖職者のエートスがありますよね? と言う。何か悩んでいるときに私たちは銀行家の下に行きなさいとアドバイスしないでしょう。聖職者の下に行きなさい、と言うはずだ。それと同じように、科学者はある特別なエートスによって特徴づけられる集団なのだ、とコリンズは言うわけ。それゆえ、経済学であっても、経済学者と私たち(と僕が思っている人の大半)は違うんだって。

 このエートスに訴える議論というのは、正直あんまり琴線に触れなかったというか、「じゃあそれを疑われたらどうすんの?」と思わないこともない。世の中には例えば似非科学者みたいな人たちがいて~、と言おうとすると、コリンズは「そんな奴らはエートスを共有していないから似非なんだ」と言う。でも、経済学自体が「似非科学」と言われたら、どうするんだろう、と直感的には思ってしまう。

 ものすごくざっくばらんに書いてはいるが、コリンズが魅力的なのは様々な例を検討し、場合によっては問題になっている具体的な発言やメールの文面もふんだんに盛り込んで持論を展開している処にある。クライメイト事件については、本著後半で分かるように、このメールの文面に対して私たちがどう感じるかということが議論で重要な役割を担うことになる。今度は原著でのんびり読んでみたい。

勿忘草の夢

 二年ほど前に作ったブログをもう一度再生させることにした。

 ただ、今度は読んだ論文や本の感想なり、ちょっと考えていることをメモ程度に書き留めておくようなブログにしようと考えている。実はGoogleの方でHPも作っていたのだが、更新するのがやたら面倒で結局荒れ地にしてしまい、ブログの方が簡単だと気付き此方を復活させることになったのだ。今度も三日坊主ほどひどくなくとも三週坊主にならないか心配だ。

 今年が始まってから前厄らしくあちこちで悪いことが起こり、ここ最近もずっとめまいと頭痛やら人間関係のあれこれ、組織のなんやらかんやらで悩まされ続けている。自分が悪いことをしたというケースも非常に多い。人がしたことは許すことができるが、自分がしたことは許されない限り勝手に終わらせることもできない。時間が経てば罪悪感も薄れるのだろうが、一度感じた罪悪感がある日突然なくなるということはこれまでのところない。未だに五年以上前のことでも、自分のしでかしたことが時折フラッシュバックして、非常に申し訳ないような気がして精神的に混乱することが多い。

 それなのに、忘れることは忘れてしまうから恐ろしい。私が元々、どうしてこんな暮らしをしているかと言えば、実は中学時代に見た夢に遡る。柳田の社の経験のようなものに近いのかもしれないが、私の場合、神秘的体験は「夢のなかでの少女との対話」という形でしばしば繰り返された。小学校時代の知り合いがどんな人だったかを忘れていくように、その少女がどんな人だったのかを少しずつ忘れていく自分がいる。夢の中の少女というものを録画したビデオはない訳で、彼女亡き今、彼女を忘れるとともに今の自分のルーツを忘れていくような気がして少し切ない。それは、町を出て新しい町でやっていこうとするような気分に似ているのかもしれない。

 ただ、最近少し引っかかることがある。彼女の考え方は確かに契約結婚のように奇抜なものもあったけれども(ちなみにこのアイディアは高校のころ、私が彼女に感心する一つの理由となった)、今にして考えるとリードやパースの動的な思考によく似ていた。彼女は「正しい一つの考え方」を自分一人で見出すべきだとは思っていなかったし、信念から次の信念へ至ることを思い描いていた(しかもその仕方は、パースの言う探究に近いものがあった)。当時私は不勉強だったから哲学史も何も知らなければ現代哲学の諸問題に聡い訳でもなかったが(や、今もか)、ひょっとすると彼女は勿忘草を持った、プラグマティズムの精霊だったのかもしれない。

 実のところ、想い出がえてしてそうであるように、具体的に何を話したのかはあまり覚えていない。印象ばかりが残っていくのだが、その印象も徐々に薄れた観念になっていく。しかしこのブログを復活させようと下書きを見て驚いた。今にして考えると、私が前にこのブログで公開しようとしていたことは、人間が具体的に抱いている悩みからどのように信念に至るかについてのものだったらしい。ちょっぴりパースっぽいじゃないか。詳細は正直、何を書いているのかよく分からなかったが。

 ただ、今でも日々抱いている悩みが重大なテーマであることには変わりはない。悩んでいるから考える。解決しようとする。その解決に人と共有できそうな合理性を持たせようとする。話し合おうとする。お互いに納得いくようにしようと思う。もしそれがうまくいかないときにどうリカバーするかを考えようとする。そのような対話が成り立つために何をしなくてはならないかを考える。破局した際に苦しむ。世界が安らぎで満たされていたならば、詰将棋と思索のどちらかを選ぶのなんて気まぐれにならないだろうかとさえ考えてしまう。無条件にこの世界の理だとか、ナマの真理を手にしようという意気込みは私にはない。